10月号のクーリエジャポンを読んでいて「優位性の幻想」という言葉が出てきました。簡単に言うと、これは「自分はあることを平均以上にはうまくできる」と「誤って」考えている、ということを指します。
なぜ誤っているかというと、この優位性の幻想はほとんどの人に見られる傾向なのですが、ほとんどの人が平均以上にうまくできるというのは、「定義上」ありえないからです。
この現象は心理学の世界では非常に有名で(平均以上効果とも呼ばれます)ぼくもこれまで当たり前のことと捉えていました。しかし、ふとおかしなことに気づきました。
クーリエジャポンでは以下のような例が紹介されています。
「対人能力において自分は平均以上だと答えた受験生が85%」
「リーダーシップについては70%」
「スポーツでは60%が自分は平均より優れていると答えた」
「別の調査では、車の運転技術を自己評価したドライバーの80%が、自分は全体の半数より優れていると答えている」
まず上の三つに関しては、少々例が卑怯だと思います。なぜって、受験という環境で自分をよく見せたいという欲求と、よく見せなければいけないという規範的プレッシャーがかかっているからです。かならずしもそうは思っていなくでも「平均よりは上」と答えてしまった人が多くデータに含まれているのではないでしょうか。
比較的受験に関係なさそうなスポーツが一番低いのもそういう理由だといえそうです。それでもやはり平均を上回っているので「優位性の幻想」というものは存在しそうです。
さてそれではそろそろ本題です。平均の定義について考えて見ましょう。平均というのはそれぞれが何らかの事柄に対してある値をもっており、その値をすべて足し合わせ、その値を持っている人の数で割ったもののことです。たとえば10人の生徒がいて、5人の身長が150センチ、残り5人の身長が160センチであったのなら、平均は155センチとなります。ここで、仮に6人の生徒が「僕は平均より身長が高い」と言った場合、少なくともそのうちの一人は優位性の幻想をおかしている可能性があります。
では次のような場合を考えてみましょう。10人の生徒の身長はそれぞれ、140,145,140,150,155,155,160,160,160,165です。この場合の平均はそれぞれの身長を足した1530を10で割るので、153センチということになります。そして先と同様に6人の生徒が「僕は平均より身長が高い」と言ったとしましょう。この場合、だれか優位性の幻想をおかしている人はいるでしょうか。153センチより身長が高い人は確かに6人ですのでみな正しく自己を認識しているようです。優位性の幻想は幻想なのでしょうか。
統計学では十分に大きな数のサンプルを取り、それを小さいほうから大きいほうへ順に並べたとき、値の分布は正規分布をとると仮定します。正規分布とは平均点付近の値をとる人が最も多く、平均点から離れるほど、その値をとる人が少なくなる分布のことを言います。
そのような正規分布になっているかぎりは、「優位性の幻想」というのは確かに存在しそうですが、先に示した例のように一見平均付近の人が最も多く見える場合でも、優位性の幻想が存在しない場合はたくさんあるのです。したがって平均以上を基準点としている限り「優位性の幻想」は幻想であるといえそうです。
ちなみにあらゆる調査ではランダムサンプリングが絶対の原則となっています。ランダムサンプリングとは調査対象者をランダムに選ぶという意味です。先に述べたように受験生に自己評価もとめるなんてやり方は極めて偏ったサンプルの仕方だといわざるを得ません。これでは「人は一般に自分が平均よりも優れていると考えている」ということを示しているのではなく、「実質にかかわらず良く評価されることが後の良い結果をもたらす場合は自分をよく言う」という当たり前のことを示しているに過ぎません。まして自分のことを好意的に評価すること自体が評価されるアメリカ社会では非常に当たり前の結果でしょう。
正規分布のところでも少し触れましたが、調査のもう一つの重要な点として「十分な大きさのサイズ」があります。しかしこの「十分な大きさ」の定義が難しく、実際には物理学の「摩擦のない世界」のように「十分な大きさの参加者が入る小さな実験室」が仮定されています。
さて、テストの点、リーダーシップやスポーツの能力、あるいは運転技術などについて「十分な大きさ」のサンプルから値を集めたとき、もし正規分布ができるのなら、人々の自己認識も正規分布しないのでしょうか。もししないのなら「優位性の幻想」は確かに存在するといえますが、もしするのなら、結局「優位性の幻想」は「統計的幻想」ということになるのかもしれません。