2012年03月11日

海に想い、海に願う 3.11から1年



 東日本大震災から1年がたちました。改めて被害に合われた方々に、心よりお悔みとお見舞いを申し上げます。

 地震と津波が与えた多くの被害は1年たった今でもそのままのものがたくさんあるかと思います。また今日このときにも34万人以上の方々が避難所生活を続け、自宅から遠く離れた場所での生活を強いられている方もたくさんいるかと思います。

 震災は過去のものではなく、今現在も続いているものです。それらが1日も早く建設と希望という未来へつながるよう、願っています。またそのお手伝いをしていきたいと思っています。
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季節を旅する

 ここ数年、僕の人生はちょっと不思議なことになっています。いや、ひょっとしたらさして不思議ではないのかもしれない。けどいまだに、僕にとっては海外に行くということは、どことなく気持ちをセンチメンタルにさせる大きなことなのです。

 2009年から2012年の今年まで4年間、毎年1月末にアメリカに行ってます(本当は2003年からなんだけど)。それぞれフロリダ、ラスベガス、サンアントニオ(テキサス)、サンディエゴ。これらに加え、南カリフォルニアにもいつも立ち寄ってます。アメリカの南部ってのは1月末なんかに行っても、あったかいんですね。けど夜になるとそれなりに冷え込むので上着が必要だったり時にはダウンジャケットが必要になります。

 2010年夏にはカナダのバンフというところに行きました。夏とはいえ、カナダでも有数の避暑地であるバンフは春のような陽気を日中は見せ、夜になると真冬のように寒くなります。ダウンジャケット必須でした。山には雪もまだ残ってましたしね。

 2011年2月にはオーストラリア。当然南半球ですから真夏です。その年の夏には中国へ。非常に暑かったです。そして今、2012年の2-3月もオーストラリアです。暑い。

 だらだらと、「あそこに行った、ここに行った」と書いたのは僕の季節感のなさを皆さんにお伝えしたいがためです。たとえば2010年の頭から僕の体感季節を追ってみると、冬(日本)→初夏(アメリカ昼)→冬(アメリカ夜)→冬(日本)→春→夏→春(カナダ昼)→冬(カナダ夜)→夏(日本)→秋→冬→冬(日本2011年)→初夏(アメリカ)→秋(アメリカ夜)→冬(日本)→夏(オーストラリア)→冬(日本)→春。。。
 
 このようになるわけです。少ししつこかったでしょうか。「冬は必ず春となる」とは去年の震災発生の頃に避難所に掲げられて多くの人が知ることになった日本の賢人の言葉ですが、なかなかなりません。いや、むしろ春を飛ばすケース多すぎです。

 こんだけあちこちを旅してると「体が慣れるのが大変だろう」と思われるかもしれませんが、それは意外と大丈夫なのです。1日もいればなれます。また「今自分はどこにいるんだっけ?」なんてこともあまり思いません。言っても海外にいるのは1週間から2週間以内のものなのでその感覚を失うことはありません。

 ところが日本で、冬を過ぎて春に向かう頃などに外を歩いていると、ふと「ああ、これから寒くなっていくのかな」なんて思うことがあるのです。秋の日のたまたま暖かい日でも「ああ、これからどんどん暑くなっていくのだなあ」などど夢想して自分に「はあ?」と思うことがあります。海外で外を歩いていると「えーっと、これから季節はどのように進むんだっけ?」などと思うわけです。春→夏→秋→冬と思う通りに進まないと季節感が損なわれるというか、季節の進行方法がわからなくなるのです。

 世界中を飛び回っているようで、その本質は季節を飛び回り、時空を超えて、まるで目が回ってどちらに進んでいたのかわからなくなるのです。

 今年の夏から秋(どこのかって?日本のです)にかけてはサラエボとイスラエルに行くことになりそうです。この分では来年の1月末のアメリカはさすがに無理かなあという感じですが、はてさて、まずはサラエボとイスラエル。どんな季節が僕を待ってくれているんでしょうねえ。
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2012年03月09日

@honz_jp のばかやろう!

 honzというサイトをご存知でしょうか?本好きの間ではかなり有名になりつつあるサイトです。これは元マイクロソフト社長の成毛さん(読み方なんだっけ)が立ち上げたノンフィクションの本の書評を掲載するサイトです。

 このサイトで本が紹介されるとあっという間にamazonから在庫がなくなり、マーケットプレイスでは高額の値段がつけられて取引されたりと、とにかく話題のいわくつきのサイトなわけです。

 ぼくはこのサイトを立ち上げ当時から知っており、定期的に見ていました。しかしながらテレビを見ないというのは大量の時間を人に与えるもので、いっちょ本腰を入れて、読みたい書評はすべて読むかと思い立ったわけです。

 ところが、とにかく紹介している本が面白い。そして書評も面白い。一つの書評から複数の他のおすすめの書評に飛べる仕掛けになっており「あれも、これも」とリンクを開いていたら、一時はなんとfirefoxのタブ数が悠に50は超えました。

 ただ書評を読むだけではもったいないので、いいなと思ったフレーズをtwitterに流し(僕のフォロワーの方はいささかうんざりしたかもしれません)、これは実際に本を読むべきと思ったものは、「つんどく」というノートをevernoteに作り、クリップもしました。

 その結果、なんと99もクリップしてしまったのです。一年かかっても読めないと思います。Honzのばかやろう!!

 しかしながら、ぼくはまだクリップしただけで実際に読むかわかりませんが、twitterではhonzのせいで本を買いすぎた、お金がない、とhonz被害者の会が有形無形に結成されるほどの白熱っぷりなわけです。

 本好きなら読んで損はないサイトです。買いすぎて損する可能性はありますが。。。
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2012年02月27日

乳がんの母に、9歳の男の子が言った深いい話

 S新聞に掲載されていた読者からのメッセージが深いいだったので紹介します。

以下引用

 17年前、乳がんの手術後の抗がん剤治療により、大量の髪の毛が落ちたことがありました。ところが「こんなに抜けちゃった」と落胆する私に、当時9歳の長男が
 「おめでとう、よかったね」と拍手して言うのです。

 「どうして?」と聞くと、「だって髪の毛が抜けたってことは、お薬が効いてきたってことでしょ?そうしたら母さんは元気になれるもん」と。

 その言葉に胸が熱くなり、うれし泣きして息子を抱き締めました。それで勇気百倍に。つらい治療が続いても、息子の言葉を思い出し、頑張ることができました。

 その息子も今は社会人となり、悪戦苦闘の毎日。「あんなすてきな励ましができなあなたなら、大丈夫!」と伝えたいと思います。
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2011年09月16日

「優位性の幻想」って幻想なのか?

 10月号のクーリエジャポンを読んでいて「優位性の幻想」という言葉が出てきました。簡単に言うと、これは「自分はあることを平均以上にはうまくできる」と「誤って」考えている、ということを指します。

 なぜ誤っているかというと、この優位性の幻想はほとんどの人に見られる傾向なのですが、ほとんどの人が平均以上にうまくできるというのは、「定義上」ありえないからです。

 この現象は心理学の世界では非常に有名で(平均以上効果とも呼ばれます)ぼくもこれまで当たり前のことと捉えていました。しかし、ふとおかしなことに気づきました。

 クーリエジャポンでは以下のような例が紹介されています。
「対人能力において自分は平均以上だと答えた受験生が85%」
「リーダーシップについては70%」
「スポーツでは60%が自分は平均より優れていると答えた」
「別の調査では、車の運転技術を自己評価したドライバーの80%が、自分は全体の半数より優れていると答えている」

 まず上の三つに関しては、少々例が卑怯だと思います。なぜって、受験という環境で自分をよく見せたいという欲求と、よく見せなければいけないという規範的プレッシャーがかかっているからです。かならずしもそうは思っていなくでも「平均よりは上」と答えてしまった人が多くデータに含まれているのではないでしょうか。

 比較的受験に関係なさそうなスポーツが一番低いのもそういう理由だといえそうです。それでもやはり平均を上回っているので「優位性の幻想」というものは存在しそうです。

 さてそれではそろそろ本題です。平均の定義について考えて見ましょう。平均というのはそれぞれが何らかの事柄に対してある値をもっており、その値をすべて足し合わせ、その値を持っている人の数で割ったもののことです。たとえば10人の生徒がいて、5人の身長が150センチ、残り5人の身長が160センチであったのなら、平均は155センチとなります。ここで、仮に6人の生徒が「僕は平均より身長が高い」と言った場合、少なくともそのうちの一人は優位性の幻想をおかしている可能性があります。

 では次のような場合を考えてみましょう。10人の生徒の身長はそれぞれ、140,145,140,150,155,155,160,160,160,165です。この場合の平均はそれぞれの身長を足した1530を10で割るので、153センチということになります。そして先と同様に6人の生徒が「僕は平均より身長が高い」と言ったとしましょう。この場合、だれか優位性の幻想をおかしている人はいるでしょうか。153センチより身長が高い人は確かに6人ですのでみな正しく自己を認識しているようです。優位性の幻想は幻想なのでしょうか。

 統計学では十分に大きな数のサンプルを取り、それを小さいほうから大きいほうへ順に並べたとき、値の分布は正規分布をとると仮定します。正規分布とは平均点付近の値をとる人が最も多く、平均点から離れるほど、その値をとる人が少なくなる分布のことを言います。

 そのような正規分布になっているかぎりは、「優位性の幻想」というのは確かに存在しそうですが、先に示した例のように一見平均付近の人が最も多く見える場合でも、優位性の幻想が存在しない場合はたくさんあるのです。したがって平均以上を基準点としている限り「優位性の幻想」は幻想であるといえそうです。

 ちなみにあらゆる調査ではランダムサンプリングが絶対の原則となっています。ランダムサンプリングとは調査対象者をランダムに選ぶという意味です。先に述べたように受験生に自己評価もとめるなんてやり方は極めて偏ったサンプルの仕方だといわざるを得ません。これでは「人は一般に自分が平均よりも優れていると考えている」ということを示しているのではなく、「実質にかかわらず良く評価されることが後の良い結果をもたらす場合は自分をよく言う」という当たり前のことを示しているに過ぎません。まして自分のことを好意的に評価すること自体が評価されるアメリカ社会では非常に当たり前の結果でしょう。

 正規分布のところでも少し触れましたが、調査のもう一つの重要な点として「十分な大きさのサイズ」があります。しかしこの「十分な大きさ」の定義が難しく、実際には物理学の「摩擦のない世界」のように「十分な大きさの参加者が入る小さな実験室」が仮定されています。

 さて、テストの点、リーダーシップやスポーツの能力、あるいは運転技術などについて「十分な大きさ」のサンプルから値を集めたとき、もし正規分布ができるのなら、人々の自己認識も正規分布しないのでしょうか。もししないのなら「優位性の幻想」は確かに存在するといえますが、もしするのなら、結局「優位性の幻想」は「統計的幻想」ということになるのかもしれません。
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2011年08月05日

上海で客引きと

 「どこか探しているのか?」

 友人二人と別れた後、そのまま帰るのもなんなのでふらふらしていた僕に、“兄ちゃん”は突然、英語で話しかけてきました。

 身なりは普通で、iPodらしきものを手に持っていました。僕はただの親切な兄ちゃんかと思って、

 「いや、なんでもないんだ」
と答えました。

 すると、兄ちゃんは僕の隣に、警戒感を抱かせない絶妙な距離で座り、僕が開いていたガイドブックを覗き込みました。

 「何を探しているんだ?」
僕は観念して、
 「マッサージを探していたんだ」
と答えました。

 すると兄ちゃんはおもむろにiPodケースから、
 「うちの会社のカードなんだ」
と言って渡してきました。初めは、昼間はマッサージ屋で働いている兄ちゃんかと思ったのですが、よく見るとどうも風俗のようです。

 「一時間のマッサージで100元。おっぱいをもみたければもう100元。そして。。。」
と、要求が上がるごとに100元ずつ上がっていくことを事細かに教えてくれました。

 「すまないが、もう帰ろうと思っていたところなんだ」
という僕に兄ちゃんは食い下がってくるので、すこし内情をうかがってみることにしました。

 「みんな学生で、日本語をしゃべる女の子もいる。もしよかったらママさんとしゃべっててもいい。」
となぜか「ママさん」の部分だけ日本語で、そのほかは流暢な英語で僕に教えてくれるのです。
 「ヨーロッパ人も、アジア人も来る。日本人や、韓国人。南アフリカ人も」
 「南アフリカ人??」
二人の間に驚きと、共感の笑みが浮かびます。

 「なあ、なんでそんなに英語が上手なんだい?」
 「会社が教えてくれるんだ」
 「ただで?」
 「そうだ」
 「そして君は給料を受け取る」
 「その通り」
 「いい仕事だね。けど今日は疲れてるし、もう帰るよ」
 「疲れているからこそ、マッサージが必要なんじゃないか」
ともっともなことを言い返されて思わず笑ってしまいます。僕が立ち上がって歩き始めると、一緒に歩いてきてなおも食い下がります。

 「なあ、いくつなんだ?」
 「27歳だよ」
 「同じだ」
客の共感をあおって、安心させて、店に連れて行こうという手だと思った僕は、
 「冗談だろ?嘘をつくなよ。なあほんとは何歳なんだよ?」
 「26歳だ」
照れたような笑顔で彼は、おそらく本当の年齢を教えてくれました。
 「何年この仕事をやってんるだい?」
 「7年だよ」
 「じゃあ20歳のころからこの仕事やってるのかよ?大学は行かなかったのか?」
 「ああ、高すぎるよ」
 「けど、この仕事で金を儲けてるんだろ?」
 「安いもんさ。月でたったの2000元にしかならない」

 友人の話によると、家賃が2000〜3000元、生活費が節約すれば1000元、普通に暮らして3000元、ちょっと贅沢すれば5000元。仮に現地人の彼の家賃が1000元で済んでるとしても、ひと月の生活費で精いっぱいで彼の手元にはほとんど残らないでしょう。

 「なあ、仕事を変えるべきじゃないか?君はこれだけ英語が喋れるわけだし」
 「英語なんて簡単なものだよ。重要なものは知識だ。知識がなければ意味がない。それにこの仕事が好きなんだ。時間が自由だしね」

 彼の発言は本質をついているように思えました。確かに彼の英語は、昼間にキャンパスツアーをしてくれた大学院生と遜色のないほどのものでした。会社で教えてもらったセリフを暗記しているのではなく、まさにコミュニケーションを可能にする生きた英語でした。

 しかし、最新鋭の機器とそれを使う目的を自由自在に説明できる大学院生とは徹底的に知識の量が違うのです。その知識の違いゆえに、兄ちゃんはその機器を見ることも、使うことも、もちろん自分で買えるようなお金を手にすることもないでしょう。

 ホテルの前まで来て、兄ちゃんは言いました。
 「とにかく、そのカードはキープしといてくれ。そして気が変わったら電話をくれ」
 「わかったよ。もし気が変わったら。電話する」
 「なあ、ところでマッサージを探してたんじゃないのか?」
 「ああ、そうだね」
 「ノーマルのか?」
 「そうだね。(君たちの仕事があるから僕が探しているのは)ノーマルの、ということになる」
 「この辺はショッピングモールとオフィス街だ。もしマッサージを受けたいのなら南京東路に行かなきゃ」
 「そうか、ありがとう。明日、言ってみるよ」
 「ああ、じゃあな」
 「じゃあ」

 最後に僕たちは、客と引きの関係ではなくて、同い年の友人として会話を交わした気がしました。僕たちに、必要な知識というものはなんなのでしょう。

 好きな仕事と、知識と、英語。僕たちの未来と将来。
 知識があればよりよい仕事ができるかもしれない。けれど英語が喋れなければその知識を十分に生かすこともできないでしょう。それに英語がわかれば知識を得る可能性も高まるのじゃないか。ただ、お金がないから最初の一歩が踏み出せない。

 そんなことをぼんやり考えながら、僕はホテルの部屋に戻ったのでした。
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2011年08月03日

上海で友人と

 上海に行ってまいりました。上海では、かとう師範大学でかなりExtensiveな心理学実験棟ツアーをしていただきました。そこには分子、脳波、遺伝子、行動などの多方面から人間の行動を探ろうと、合計で数億はするであろうという機器がそれぞれに分かれた個室に設置されていました。

 あれだけの設備は国内では理研と岡崎生理研にあるかないかでしょう。ツアーを行ってくれた学生さんの英語は非常に流暢でした。またツアーをアレンジしてくださった馬さんの話によると設備面では国内では5番目くらいでしょうと言っていました。日本であれだけの設備を備えている場所があるかないかほどなのに、中国では5番目くらいだというのです。中国の底の深さを思い知るとともに、今後の研究成果が待ち望ましいような恐ろしいような気持になりました。間違いなく、あそこには真実の可能性が潜んでいました。

 その後、今後の方向性について話し合い、馬さんとは別れました。

 夜は、上海で仕事をしている高校時代の友人と、大学時代の友人と一緒に食事をしました。

 高校を卒業してから9年、大学を卒業してから4年の月日が流れています。お互いにそれぞれ近況を話し合いながら、なんだか大人になったんだなあと実感しました。

 特に僕はいまだ学生で、2人は社会でしかも海外で働いており、うまく説明できませんが、すごいなあと感心しきりでした。

 考えてみれば不思議な三人で不思議な場所で会ったものです。それぞれがそれぞれの道を歩み、思いがけず上海の町で再会し、なぜかピザを囲んで僕は青島ビールを飲んで、語り合いました。

 やはり学生時代の友人というものはいいもので、それぞれに成長した部分もありながらお互いに何も変わっておらず、久しぶりにリラックスした気分を味わえました。2人もリラックスしてくれたようでよかったです。

 僕にとって上海はとてもモダンで割ときれいでいい街だなと思ったのですが、2人は長くいる場所じゃないと言っていたのが印象的でした。だからと言ってすぐに中国を出ようというわけではないと思いますが、旅行者には見えない、現地で生きているからこその言葉だろうなと思ったのです。

 そして僕たちは笑顔でわかれて、2人は明日の仕事へ、僕は日本に向かったのでした。
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2011年07月16日

iPhone、インターネット、大学教育について

 Wired.jpで「iPhoneは大学教育をどう変えるか:具体例をレポート」という記事が掲載されていました[URL]。

 記事の内容は面白く参考になるところもあったのですが、記事のメインメッセージとは少し違うところにツッコミを入れたいと思います。
 それは今後、ますますiPhoneなどの携帯端末が我々の世界に入ってくるなかで、自覚しておくべき視点だと思うのです。

 まずは気になる箇所を記事から引用
講師が1册の教科書を指定し、これについて講義するような従来型の教室は、時代遅れになりつつある。数年で内容が古くなるであろう「印刷された教科書」に関して、単一の情報源から話を聞くというやり方は、インターネットと比べると固定的で、絶望的なまでに制限されているように見える。インターネットは、数十億という人々が常に提供を続ける、絶え間ない情報の流れへと扉を開くからだ。

 この中の特に「数年で内容が古くなるであろう「印刷された教科書」に関して、単一の情報源から話を聞くというやり方は、固定的で、絶望的なまでに制限されているように見える」という箇所に特に注目していただきたいのです。

 僕は「数年で内容が古くなるであろう「印刷された教科書」」は、正しいと思っています。けどこれは今に始まったことではなくて、1900年代前半を生きたアインシュタインも「先生、今年の試験の問題が昨年のものとまったく同じなのですが!」と質問され、「そうとも。しかし、今年は全部答えが違うよ」と切り返しています。まあTwitterのBOTの発言なので正否は定かではありませんが知識の本質をついています。つまり知識は時と共に移ろい塗り替えられるものなのです。

 しかし、その後の「単一の情報源から話を聞くというやり方は、インターネットと比べると」という箇所は直前の文とは必ずしもつながっていないし、インターネットと比べることでもないと思うのです。
 まず仮に「印刷された教科書が数年で内容が古く」ならなくても、単一の情報源から話を聞くやり方はうまくありません。インターネットは複数の情報源から話を聞くことを可能にするツールではありますが、そのこと自体を促すものではありません。むしろ回答を見つける簡便さから最初の答えに飛びついて他の答えを探さなかったり、複数の「源」から得たつもりの「情報」が実は根拠の無い根無し草。あるいは「源」を書いていないだけで、実はすべて単一の「源」から得られたコピペだった可能性もあるのです。

 いや、そもそも前提に問題があるでしょう。「印刷された教科書」が「単一の情報源である」という前提です。優れた教科書は複数の視点を柔軟に取り入れ、知識を得たことの満足感よりも、さらなる知識欲、好奇心を読者から引き出すもののはずです。

 そのような優れた教科書のもとで行われる教育は、学生に知識以上に問う力と学ぶ力を与えるはずです。知識は往々にして移ろいやすく相対的なものです。大事なのはそれらを見極め、新たに作り出していく力だと思います。アインシュタインが何を言ったか、あるいはアインシュタインが言ったのかどうかではなく、そこから何を知り、問い、考えるかです。

 iPhoneを取り入れた大学教育を行うRenkin教授(専門は中世研究)はこの点をちゃんと踏まえられているようです。以下引用
Rankin教授はいま、教壇に立って1時間話すことよりは、iPhoneを使って関連情報をその場で調べる方法に焦点を当てている。その後学生たちは、見つけた情報について話し合い、Rankin教授は正確で役立つ情報源の選定を手伝うことで会話をリードする。


 僕は大学時代にある教授が言った言葉をしばしば思い出します。
 「教育の目的は、学生が大学という機関を離れたときに自分で自分を教育する力を身につけさせることだ」

 自分の目の前にある知識やツールがどのように変化しても、学び続ける力を身につけた人にとってそのような変化は小さな変化で、教育の本質は変わらないのではないかと思います。


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2011年07月15日

心理学研究に見る「当たり前の結果」

 心理学の研究とは一言で言えば「人間についてよりよく知ること」なんですが、研究者であれ一般の人であれ「人間についてよりよく知ること」はできます。

 そのため、「それって当たり前じゃないですか?」と思われるようなことが心理学の最新の論文に載ることがあります。

 そのような事例を1つ取ってきて、「心理学は既に分かっていることを確かめなおす学問」とか、「心理学に発見は無い」や、もっとざっくり「心理学の研究対象はつまらない」なんて批判がされることがあります。

 しかしながら「既に明らかになっている事柄は論文には載らない」という科学の当たり前のルールを知っているならばこの批判が妥当でないことはすぐに分かるはずです。

 では、なぜ「当たり前に見える結果」が最新論文に載るのでしょうか。

 まず一つに、近年の技術革新があります。MRIなどの医療器具を使った心理的発見はもとよりコンピュータの発達と低価格化がどんどん新たな実験方法を可能にしています。したがって「当たり前だと思っているけどいまだ誰も科学的に検証できていない真実」を明らかにする方法が生まれてきているのです。

 こういう事を言うと「やっぱり当たり前のことを確かめなおしているのか」と言われそうですが、「当たり前に見える結果」が最新論文に載る理由はもうひとつあります。

 それは、これまでに行われてきた研究に問題がある場合です。

 物理学ではたまに、「理論的には可能だが現実には存在しない」なんて表現を聞くことがあります。心理学や、他の学問でも同様ですが、実験を行う際は高度に統制された環境、つまり調べたい対象以外が影響しない環境を作為的に作り出します。それが実験室というものです。例えば心理学の実験では、参加者実験に参加している間、実験室の明かりを消すことがあります。また実験室の壁が防音になっており、実験刺激以外何も聞こえない状況で実験を行うこともあります。MRI検査を受けたことのある人なら分かると思いますが、MRIはすごい爆音の中で検査を行います。言ってしまえば「実験室は現実には存在しない場所」なのです。

 これまでの研究がそういった実験室で行われてきたために作為的に「当たり前でない結果」が生み出されていた場合があるわけです。これはどういう事というと、これまでの研究が「人間についてよりよく知ること」ではなく、「実験室にいる人間についてよりよく知ること」だった可能性があるという事です。

 つまり最新論文に「当たり前に見える結果」が出てきているという事は、心理学がより妥当性のある現実に重要なインパクを与える研究が出てきているという事なのです。もちろん当たり前ではない結果も最新論文には発表されますが、そういった「当たり前に見える結果」は心理学の妥当性を支持し、これからの人々に正しく適切な助言を与えうるものなのです。


2011/07/14のトップ3
1.トップランナー「川上美映子(作家)」
2.本当は怖いカチカチ山
3.美人時計
posted by ごとうp at 13:46| Comment(0) | TrackBack(0) | message | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月28日

エミ・マイヤーのLiveに行ってきた

 キューピーマヨネーズのCMで密かな話題になっている、音楽ファンなら押さえておきたい、エミ・マイヤーさんのLiveに行ってきました。

 青いドレスに全身を包み、ピアノの前に座る。どことなく中庸な顔立ち。いつか見たかわいらしい少女のようでもあり、近所の憧れのお姉さんという雰囲気でもある。

 バンドの構成はドラムとコントラバス。ときどきギター。

 力強さとしなやかさが組み合わされたようなタッチのピアノを弾きながら歌う。例えるなら「力強い吐息」。声はノラジョーンズなんかに近いものがあるがいわゆる癒し系とはちがう。

 聞く人をそこから動かさないまま、体にまとわりついた日常の嫌なものたちを吹き飛ばしてくれるような力強さがあるのだ。その一方で、変わることこそが自然、変わり続けることがあなたらしくいること、と勇気付けてくれるようでもある。

 中庸な顔立ちだから、てっきり外国の方かと思ったら、日本語がとても流暢。MCはほとんど日本語で行っていた。多くの曲は英語詞だが、日本語でも歌う。母親が日本人で、父親がアイリッシュドイツ系アメリカ人。幼少期から大人になるまでのほとんどをアメリカのシアトルで過ごしたらしい。

 曲調は全体的にファンタジックな印象を与え、ドラムが小気味いいリズムを刻む。ブラシも多用するため、ファンタジックな曲調に色身を加え、小さな音の粒が舞う。ときおり弓を使って引くコントラバスもいい。

 いくつもいいなと思える曲があったが、「登り坂」という曲の歌詞が印象的だった。

 「登り坂の数だけ強くなれる」

 英語詞だと、全体的にジャジーでファンタジックな音を聞かせるのに、日本語詞だと、どこか昭和臭いというか、民謡のような響きをするのも彼女の魅力だ。

 
 これからも聞いていきたいなと思える人でした。
 やっぱり生の音楽は最高です!


【関連記事】
エミ・マイヤー オフィシャルサイト(外部サイト)[URL


2011/5/27のトップ3
1.本当は怖いカチカチ山
2.マイケル・ジョーダン、米バスケットボー…
3.大学教授が大学生に薦める本100選
posted by ごとうp at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | message | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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