友人二人と別れた後、そのまま帰るのもなんなのでふらふらしていた僕に、“兄ちゃん”は突然、英語で話しかけてきました。
身なりは普通で、iPodらしきものを手に持っていました。僕はただの親切な兄ちゃんかと思って、
「いや、なんでもないんだ」
と答えました。
すると、兄ちゃんは僕の隣に、警戒感を抱かせない絶妙な距離で座り、僕が開いていたガイドブックを覗き込みました。
「何を探しているんだ?」
僕は観念して、
「マッサージを探していたんだ」
と答えました。
すると兄ちゃんはおもむろにiPodケースから、
「うちの会社のカードなんだ」
と言って渡してきました。初めは、昼間はマッサージ屋で働いている兄ちゃんかと思ったのですが、よく見るとどうも風俗のようです。
「一時間のマッサージで100元。おっぱいをもみたければもう100元。そして。。。」
と、要求が上がるごとに100元ずつ上がっていくことを事細かに教えてくれました。
「すまないが、もう帰ろうと思っていたところなんだ」
という僕に兄ちゃんは食い下がってくるので、すこし内情をうかがってみることにしました。
「みんな学生で、日本語をしゃべる女の子もいる。もしよかったらママさんとしゃべっててもいい。」
となぜか「ママさん」の部分だけ日本語で、そのほかは流暢な英語で僕に教えてくれるのです。
「ヨーロッパ人も、アジア人も来る。日本人や、韓国人。南アフリカ人も」
「南アフリカ人??」
二人の間に驚きと、共感の笑みが浮かびます。
「なあ、なんでそんなに英語が上手なんだい?」
「会社が教えてくれるんだ」
「ただで?」
「そうだ」
「そして君は給料を受け取る」
「その通り」
「いい仕事だね。けど今日は疲れてるし、もう帰るよ」
「疲れているからこそ、マッサージが必要なんじゃないか」
ともっともなことを言い返されて思わず笑ってしまいます。僕が立ち上がって歩き始めると、一緒に歩いてきてなおも食い下がります。
「なあ、いくつなんだ?」
「27歳だよ」
「同じだ」
客の共感をあおって、安心させて、店に連れて行こうという手だと思った僕は、
「冗談だろ?嘘をつくなよ。なあほんとは何歳なんだよ?」
「26歳だ」
照れたような笑顔で彼は、おそらく本当の年齢を教えてくれました。
「何年この仕事をやってんるだい?」
「7年だよ」
「じゃあ20歳のころからこの仕事やってるのかよ?大学は行かなかったのか?」
「ああ、高すぎるよ」
「けど、この仕事で金を儲けてるんだろ?」
「安いもんさ。月でたったの2000元にしかならない」
友人の話によると、家賃が2000〜3000元、生活費が節約すれば1000元、普通に暮らして3000元、ちょっと贅沢すれば5000元。仮に現地人の彼の家賃が1000元で済んでるとしても、ひと月の生活費で精いっぱいで彼の手元にはほとんど残らないでしょう。
「なあ、仕事を変えるべきじゃないか?君はこれだけ英語が喋れるわけだし」
「英語なんて簡単なものだよ。重要なものは知識だ。知識がなければ意味がない。それにこの仕事が好きなんだ。時間が自由だしね」
彼の発言は本質をついているように思えました。確かに彼の英語は、昼間にキャンパスツアーをしてくれた大学院生と遜色のないほどのものでした。会社で教えてもらったセリフを暗記しているのではなく、まさにコミュニケーションを可能にする生きた英語でした。
しかし、最新鋭の機器とそれを使う目的を自由自在に説明できる大学院生とは徹底的に知識の量が違うのです。その知識の違いゆえに、兄ちゃんはその機器を見ることも、使うことも、もちろん自分で買えるようなお金を手にすることもないでしょう。
ホテルの前まで来て、兄ちゃんは言いました。
「とにかく、そのカードはキープしといてくれ。そして気が変わったら電話をくれ」
「わかったよ。もし気が変わったら。電話する」
「なあ、ところでマッサージを探してたんじゃないのか?」
「ああ、そうだね」
「ノーマルのか?」
「そうだね。(君たちの仕事があるから僕が探しているのは)ノーマルの、ということになる」
「この辺はショッピングモールとオフィス街だ。もしマッサージを受けたいのなら南京東路に行かなきゃ」
「そうか、ありがとう。明日、言ってみるよ」
「ああ、じゃあな」
「じゃあ」
最後に僕たちは、客と引きの関係ではなくて、同い年の友人として会話を交わした気がしました。僕たちに、必要な知識というものはなんなのでしょう。
好きな仕事と、知識と、英語。僕たちの未来と将来。
知識があればよりよい仕事ができるかもしれない。けれど英語が喋れなければその知識を十分に生かすこともできないでしょう。それに英語がわかれば知識を得る可能性も高まるのじゃないか。ただ、お金がないから最初の一歩が踏み出せない。
そんなことをぼんやり考えながら、僕はホテルの部屋に戻ったのでした。